保安官事務所の決闘

獅子充 麓

保安官事務所の決闘
『保安官事務所の決闘』.pdf
PDFファイル 470.3 KB

 追撃隊が出て行った後の保安官事務所は、それまでとはうってかわった静寂のなかに取り残された。

 保安官は追撃隊を見送ると、事務机の後ろの椅子にまわって腰をおろし、煙草を巻きはじめた。

 かつて若かりし日、獲物を追う餓えたコヨーテに譬えられたその風貌も、いまではすっかり老け込み、ポーチに寝そべって日向ぼっこしている老犬のそれにひとしくなっていた。

 かつて、その面長の貌を縁取っていた鬚は、夏の日の草原に生い茂る若草のように黒々としていたものだった。その皮膚は血色良く、溌剌と輝いていた。四肢は頑丈で弾力に富み、その俊敏な動きは、みなの目を見開かせたものだった。

 それがいま、鬚はすっかり白くなり、皮膚には多くの深い皺が刻まれていた。その皮膚は日に焼け、なめし皮のように干乾びていた。ところどころに、黒くて大きいシミが浮かんでいた。煙草の葉を巻紙に落とすその手は微妙に震え、こぼれた煙草の葉が、黄ばんだシャツやくたびれたズボンの上に落ちた。

 糊代の部分を舌で湿し、慎重に紙を巻き終えると、彼はその煙草を口にくわえ、マッチで火をつけて、深々と一服した。

 ゆっくりと煙草を吸い終えると、チョッキの胸ポケットから眼鏡を取り出して、机上に積んである報告書の山に目を通しはじめた。

 末尾にサインを記したり、短い指示事項を書き入れたりして、その半分ほどを片付けると、一息吐いてペンを置き、曲がった背をのばして大きく一伸びした。

 眼鏡をはずして硬く閉じた目の目頭を揉んでいると、裏手のほうで、かすかな音がした。

 一瞬、目頭を揉んでいた手が止まったが、やがて眼鏡をかけ直すと、大きく息をついて、椅子の背にもたれた。

 裏手は、鉄格子の嵌った留置場になっていた。大抵は、度を過ごした酔っ払いや喧嘩の当事者たちが、そこで一晩、頭を冷やしてから、翌日の仕事に戻っていくのだった。

 たまに牛泥棒や駅馬車強盗、殺人犯などと云った重犯罪人や、おたずね者の賞金首などを、巡回判事が来るまでの間、閉じ込めておくこともあったが、その留置場も、いまは空っぽだった。

 裏口のドアから執務室までは、短い廊下が通っていた。廊下と執務室との境には、舶来のレースのカーテンが掛かっていた。かつては白く輝いていたそのカーテンも、いまでは砂埃に黄色く汚れ、折目もなくなってしまっていた。

 音はしなかった。なのにいま、そのカーテンが、ゆっくりとめくれあがった。

「ハロウ、シェリフ」

 若々しい声が聞こえた。

「ハロウ、キッド」

 保安官は振り向きもせず、驚いた様子もなく、椅子に背をもたせたまま、およそ抑揚のない声で応えた。

 戸口に姿を現したのは、埃まみれの黒い山高帽をかぶり、焦茶色の乗馬ズボンを穿いて、クリーム色のシャツに革のチョッキを着た小柄な男だった。

 キッドと呼ばれた若者は、その童顔に冷たいナイフのような笑みを浮かべると、敷居際から室内を横切って、保安官の正面にまわった。

「ノックをするべきだったんだろうね」

 そう云って椅子を引き寄せると、その椅子を後ろ向きにまわして馬乗りになり、背もたれに両腕をのせて、あごを置いた。

「他人行儀な。俺とおまえの仲じゃないか」

 保安官は椅子から背を離し、デスクに両肘をついて両手の指を組み合わせると、その上にあごをのせた。

 キッドは肩をすくめた。

「ティファナにいるはずの男がやって来たっていうのに、驚いてないみたいだね」

「噂なんか当てにならないもんさ。おまえさんが、いちばんよく知ってるだろう」

「そうだね。噂によると、ぼくは南西部を荒らしまわる無法者たちの首領で、血に餓えた人殺し、年齢の数と同じだけ人を殺した、二丁拳銃の悪魔ってことになってるからね」

「違うのか」

「とんでもない。ぼくはまだ、二十一だぜ。年齢の数とおんなじだけ人を殺してるんなら、もう、四十近いオッサンじゃないか」

 保安官は苦笑した。

「そのことを悔いて、自首しに来たのか」

「ぼくが」キッドは驚いたように目を見開き、背を反らせると、その指先を自分の胸に向けた。「なんで、ぼくが自首なんかしなくちゃならないんだい」

「勲章がもらえるとも思っちゃいまい」

「勲章か。そうだ、そいつは気づかなかった」指を鳴らして、「そいつはいい考えだ。ウン、名案だ。さすが、シェリフだ。さっそく、大統領に手紙を出そう」

 興が乗ったように、椅子の背をつかんで、前後に揺らし始めた。

「なんて書くつもりだ。仲間たちと語らって、親爺のように慕ってた牧場主の商売敵を殺しました、その雇い人や仲間たちも、一人残らず、殺してまわりました、その功を讃え、勲章をくださいますようにって、か」

「そうだな、じゃあ、口述するから、書き取ってくれ」

 キッドはそう云って背をそらし、おもむろに口を開いた。

「『敬愛する偉大なる大統領閣下。

 閣下が任命された州知事、ならびに正義と治安を守るべき郡保安官の怠慢により、敬虔篤実、善良にして勤勉、自らに峻厳、他に接するに温厚なよき市民が、強欲非道、冷酷にして陰険、私欲を図るに手段を選ばず、他に対して傲慢卑怯な下衆野郎に、なぶり殺しにされました。

 しかるに閣下が任命された州知事、ならびに正義と治安の守護者たるべき郡保安官は、怠慢にも、この野卑下劣きわまる破廉恥漢に、法と正義の鉄槌を下すことはおろか、その穢れたる利得の分け前に預かって自らの責務を放棄し、あろうことか、かの卑劣漢を庇護するの挙に出でました。

 ここにおいて、神を畏れ、法を尊び、正義を愛する吾人は、志を同じゅうする友人たちとともに、吾人等に誇るべき労働と日々の糧を与え、紳士としての教育を施し、人生の師として自ら範を示した、厳しくも慈悲深き故人の御霊を安んぜんがため、真摯なる友情と堅忍不抜の信念を相誓い、相固め、一致団結して、卑劣なる畜生どもに蹂躙された法と正義と秩序を回復するべく、その行動を開始したのであります。

 法と正義に基づく吾人等の前に、かの下衆下劣なる悪党どもは色を失い、大いに恐れおののきつつも、もろく、はかなく、無力な、自暴自棄なる抵抗を試みましたが、正義と神の御加護を有する吾人等の裁きによって、ひとり、またひとり、と、その数を減じていきました。

 法と正義を布かんとせる天意を体現したる吾人等の働きによって、閣下の任命された州知事も、さすがに己を恥じ、一夕、吾人をその居宅に招いて、恥を知らぬ悪漢どもの厳正なる処罰と、法と正義に基づいた吾人等の行為に対して為された不法なる判断の取消とを、神を畏れ敬う敬虔なる紳士同士として、約束されたのであります。

 ところが、野卑下劣、厚顔無恥にして冷酷薄情なるかの悪漢どもは、この州知事を脅し、なだめ、すかし、およそありとあらゆる卑劣卑怯なる手段を用いて篭絡し、ともに神を畏れ敬う、敬虔なる紳士として取り交わしたる公明正大な約束を破棄して裏切らせ、善良にして性純朴、かけがえのない吾人の友人たちを、多く死に追いやったのであります。

 吾人は屈せず、僅かに生き残った仲間たちと活動を続け、ついに一人も余すことなく、かの悪党輩を殲滅し、閣下の統治せるこの国の、法と正義を実現し、その秩序を回復する一端を開いたのであります。

 かかる行いは、神を畏れ敬う者として、また、閣下の統治せらるるこの国の善良なる市民として、さらには廉恥を知り徳義を重んずる紳士として、当然の行いであり、なんらの栄誉栄爵をも求めるものではありませんが、もし閣下にして、吾人の働きを嘉し給い、これに報いずんば宸襟安らかならずと思し召さるるならば、吾人の功績に免じ、なにとぞ、高潔にして勇敢なる、いまは亡き吾人の仲間たちに着せられたる謂れなき罪の汚名を雪ぎ、合わせて吾人のそれをも御赦免下さるべく、恐惶頓首、謹みてお願い申し上げ奉りまする』」

 その長広舌の間中、キッドは思い入れたっぷりに表情を動かし、派手な身振り手振りを片時も休めなかった。

 保安官はその長広舌と芝居がかった仕草を、あきれたような、ある意味感心したような表情で聞き、かつながめていた。もちろん、その一言すら、書きとめようとはしなかった。

「どうだい」

 キッドはその大きな瞳を悪戯っぽくクリクリと動かすと、また元の姿勢に戻った。

「よくそれだけのセリフが云えたもんだな」

 保安官は皺に囲まれた目をみはり、心底感心した口吻で云った。

「見直したかい」

「あきれたよ」保安官は、また目を伏せた。「よくもまあ、それだけ出鱈目の、嘘八百を並べ立てられるもんだ。おまけに、やたら大袈裟に、ゴテゴテと飾り立てて。旧大陸の宮廷婦人の衣裳みたいだよ。キッド、いったいおまえはいつから、そんな悪趣味な人間になったんだね」

 保安官は事務机の上に伸ばした右腕の指先で、机の表面を叩きながら云った。

「お偉方に出す手紙なら、そのほうが効果的だと思ってね」笑ったキッドの歯が皓く光った。「なにしろ連中ときたら、大仰で勿体ぶって、ゴテゴテと飾り立てたものが大好きなんだから」

 キッドは保安官の目をのぞきこむように背を丸め、

「それに、これは事実だよ。事実はハッキリ認めなくちゃいけない。そうだろ」

「オヤジは狩りに出ていたインディアンの流れ弾に当たって死んだ。不幸な事故だった。これが事実だ」

「それは、判事の事実さ。あの薄汚い豚野郎に金で買われた、性根の腐ったヒモ野郎の、ね」

「インディアン自身が証言したんだ。狩りに出かけていて、誤って撃ったってな」

「あの豚野郎に脅されたからさ。証言台に立ったインディアンの部族に行って、話を聞いてみたかい。もしその部族に行って、巧く話を聞き出せたなら、あの豚野郎の手下に脅かされて、やむなくそう証言せざるを得なかったってことが分かったはずさ。

 新年最初の狩りに出ていたんだが、獲物を狙って撃った弾が、運悪く、来合わせた白人のダンナに当たってしまった。そう証言してくれ。不運な事故だったんだから、罪に問われることはない。もし嫌だと云うなら、今後キミの部族には、いっさい食糧は供給できない。部族の連中は恐ろしい餓えに苛まれることになる。それでもいいのか。って、わけさ」キッドは軽く肩をすくめてみせた。「チェルシー族に食糧を供給する権利は、あの豚野郎が独占していたからね。汚い金で、州のお偉方を買収して」

「証拠はないな」

「結局、裁判の後で、チェルシー族は殲滅させられたからね。いつもの手さ。てめえの腸みたいに腐った肉だけを送りつけて、抗議すると、政府に対する叛逆行為、暴動と称して、鎮圧したのさ。いや、鎮圧じゃない、虐殺だよ。碌な武器も持たないインディアンを、インディアンというだけで殺してまわったんだ。大人も子どもも、男も女も。

 馬で蹴散らし、小銃の弾を浴びせ、銃剣で串刺しにしたんだ。年寄や病人、子どもたちなんかは、馬の蹄で踏み付けて殺した。弾がもったいないってね。

 女の子たちは凌辱された。人妻だろうが娘だろうがおかまいなく、まだ母親に甘えてるような小さい子でさえ、見境なく、犯しまくったんだ。

 俺が仲間たちと一緒に駈け着けたときには、雪が真っ赤に染まって、馬の足を踏み入れる隙間もないほどに、屍体が転がってたよ。互いに折り重なって。赤ん坊を抱きかかえたまま、蹄でムチャクチャに踏み潰され、銃剣でメッタ突きにされた屍体もあった。ミンチみたいに細切れにされた年寄の屍体もあった。

 それをやった下衆な畜生どもが、なんて呼ばれてるか、知ってるか。『英雄』だとよ。『野蛮なインディアンを討滅し、善良な市民の平和を護った英雄』だとさ。

 笑わせるぜ。いや、笑えないジョークだよ」

「それは、俺の知ったことじゃない」保安官は眉を顰め、深い顔の皺をいっそう深くして、静かに云った。「俺は与えられた権限に基づいて、与えられた権限の範囲内で、法を執行するだけだ。お前の云ったことがもし事実なら、それは知事か判事に訴えるべきだ」

「その知事も判事も、あの腐った豚野郎に丸め込まれてるのさ。ヤツの、腐った金を貰ってね。あんただって、知らないはずはないだろう」

 キッドは、椅子の背に乗せた両腕のうえから、顔を突き出して云った。

 保安官の皺が、いよいよ深くなった。

「知事に会ったとき、そのことも云ったよ。チェリーは、ぼくが知事に会うことには反対だった。当然だよ。自分の部族を皆殺しにされたんだからね。他の仲間たちも反対した。巧いこと云っておびき寄せて、その場で殺してしまうつもりだって云うんだ。

 ぼくもそう思わなかったわけじゃないよ。でも、ぼくは出向いた。捕まってもかまわなかった。ただ、知事に会って、いままでの経緯をすっかり話して、ぼくらのやってきたことを分かってほしかったんだ。ぼくらに着せられた汚名をすすいで、みんなが昔のように、立派な市民として生きていくための恩赦がほしかったのさ」

「その思いも裏切られたってわけか」

「そのとおり。知事はぼくを自分の居宅に呼び出しておいて、裏ではぼくの仲間たちを皆殺しにしようとしたんだ。あの薄汚い豚野郎とつるんで、ぼくらが使っていた隠し砦を襲撃させたんだ。

 ぼくがバカだったよ。大統領に任命された知事が、まさかそんな卑劣なマネをするとは、思ってもみなかったのさ」キッドの皓い犬歯が、紅色のやわらかいくちびるを噛んだ。「あのときの襲撃で、ほとんどの仲間が殺された。マイクも、スミスも、チャーリーも、ラウルも、みんな、殺された」

 保安官は目を伏せたままだった。額と眉間の皺も、深刻なままだった。聞いているのかいないのか、ただ右手の指先だけが、規則正しく、事務机の表面を叩き続けていた。

「バードも」キッドは真正面から、保安官を見据えた。その目に力がこもった。「バードもだよ、シェリフ。オヤジのところで牧童をしていた頃、あんたがいちばん、かわいがってた子だ」

「知ってるよ」

「シェリフ、よくそんなつれない云い方ができるな。

 忘れたのかい。あんたが毒蛇に咬まれて、三日三晩、ベッドで唸ってたとき、あの子はつきっきりで、あんたを看病したんだぜ。

 夜もろくに眠らず、あんたがうなされるたびに、あの子はあんたの腕をつかんで、額を撫でて、あんたを力づけたんだ。

 汗を拭い、オートミールやミルクを飲ませ、汗に濡れた服を着換えさせ、垂れ流した糞小便の始末までやった。

 朝晩あんたのベッドの足元で、必死にお祈りしてたよ。天使みたいな子だった。見てくれだけじゃなく、心の中まで、ね。

 あの子は最期まで、あんたを尊敬してた。あんたを尊敬して、慕ってた。息を引き取る間際まで、あんたがぼくたちを裏切って、あの豚野郎の手先になったことを信じなかった。信じようとしなかったんだ」

「俺はだれも裏切った覚えはない」

「じゃあ、その胸に光ってるバッジはなんなんだい。クリスマス・ツリーの飾りかい」

「おまえは知事の居宅を出たところで逮捕された。そのおまえが、保安官と助手を殺して脱獄した後、俺は知事に招かれて、正式に保安官就任の打診を受けた。断る理由はなかった。その頃俺は仕事にあぶれてたし、貯えもなかった。おまけに、自分が老いぼれてきたことを、認めざるを得なくなってきた。歳をとったってことを、認めなきゃならなくなったのさ」

「それがなんだって云うんだい」

「おまえもいずれ分かるようになるさ。仕事もなく、金もなく、頼れる者も家族もなく、ひとり年老いていくことが、どれだけつらく、侘しいものか。いずれおまえにも分かるようになる。生きていれば、な」

「ぼくたちがいたじゃないか」キッドは正面から保安官を見据えて云った。「ぼくたちはなんだったんだい。同じ牧場で働いてた仲間じゃないか」

「おまえたちは若い。銃を片手に、自分の正義を信じて暴れまわれる」保安官は身じろぎもせず、ただ口だけを動かしていた。「だが俺はそうじゃない。年をとった。いつのまにか、な」

「それがなんだってんだい」キッドが云った。「それがぼくたちを裏切る理由になるとでも思っているのかい」

「おれはだれも裏切った覚えはない」

「あんたはぼくたちを狩り立てた。追撃隊を組織して、徹底的に、ぼくたちを追い回した。

 楽な仕事だったろうよ。同じ釜のメシを食った仲間たちばかりだ。隠れ家も、支援者たちも、行動パターンだって、ぼくらのことは、全部知ってるんだからね。

 さすがにあんたの攻撃をかわすのは、楽じゃなかった。手口は読まれてるし、打つ手は素早かった。反撃する暇もなかったよ。

 ぼくたちは身を隠す場所もなくなり、ぼくたちを匿ってくれる人もいなくなった。かろうじて生き延びた仲間たちも殺され、とうとう、ファティマくんだりにまで逃げ延びなきゃならなくなった」

「自業自得だ。おまえは知事の任命した保安官を殺し、保安官の組織した義勇軍に参加した市民を殺して回った」

「それこそ、自業自得だよ。恩赦の餌でぼくを誘き寄せて捕まえ、汚い手段で仲間を殺したんだ」

「おまえは個人的な復讐心を満足させただけだ。法に則った行為じゃない」

「じゃあ、あの糞野郎どものやったことは、法に則ってるとでも云うのかい。自分の商売の邪魔になるオヤジを殺し、自分たちに反対するぼくらを追い回し、インディアンを利用して虐殺し、それで自分の懐を肥やそうとしているあの豚野郎どもが、正当な法に則ってるって云うのかい」

「証拠はない。証拠がない以上、それはおまえの勝手な思い込みに過ぎない」

 キッドの目が険しくなった。

「それがこの国のやりかたかい。汚い手段で金を儲けた奴らが、その腐った金で役人や政治家どもを買収して丸め込み、好き放題やらかして、これから自分の力で一旗挙げようとする正直な人たちや、インディアンのような先住民を抑えつけ、踏みつけにし、殺して回る。自分に対立する者、自分の邪魔になる者、自分のためにならない者、自分の気に入らない者、そんな人たちを、汚い手段で抹殺しておいて、自分だけは涼しい顔で、『証拠はござらぬ、わたくしは紳士でございます、善良な市民でございます』ってか。ふざけるな」

 キッドは床に唾を吐いた。その童顔に血が上り、赤く染まった。

「時代は変わったんだ、キッド。自分の正義感だけで、拳銃片手に暴れ廻れた時代は、もう終わった。これからは、法が正義の時代だ。人を裁くには、証拠が必要なんだ」

 保安官の口ぶりは、あいかわらず、おだやかで、淋しかった。

「そうだろうよ。だからこそ、あの性根の腐った豚野郎は、自分の手下を使ってオヤジを殺しときながら、インディアンを脅して証言台に立たせて、自分は関係ないって、涼しいツラをしてすましてられるんだ。

 いいかい、保安官。いくら時代が変わっても、俺は変わらない。絶対に変わらない。正義だって──証拠があろうがなかろうが──、正義だって、絶対に、変わらない。時代だって変わらない。変わったのは表面ヅラだけさ。心底の中身まで、変わるもんか」

「時代は変わったんだ、キッド」保安官は目を上げて、真正面からキッドを見据えると、キッパリと云った。「いまも変わり続けてる。そして、これからも変わり続ける。それが時代だ」

 キッドの目が細まり、口もとが引き締まった。

「俺は変わらない。絶対に、変わらない」

 二人の視線が交錯した。不可視な火花が散り、一瞬、時が凍りついた。

 次の瞬間、派手な音を立てて、キッドが椅子ごと後ろに倒れた。同時に銃声が響いた。一発の大きな音のように響いたが、実際は二発だった。

 硝煙が立ち上り、事務所が震え、天井のランプが揺れて、埃が舞い落ちた。

 キッドの撃った弾は、壁に並んだライフル銃の陳列棚を破壊して、そのほとんどを床に散らばらせた。

 保安官は椅子を後方に撥ね飛ばして、机の下に潜り込んでいた。壁から弾き飛ばされた何丁かのライフル銃が、机の天板を叩いた。

 机は三方を板で囲まれていた。保安官はその中から、顔半分と、縮めた片手だけを出して、キッドの座っていた椅子に銃弾を浴びせた。

 腰掛けの板が粉々に砕けて、四本の足が飛び散った。

 部屋の隅から保安官の机めがけて、立て続けに銃弾が集まった。

 キッドはわざと後ろ向きに倒れると、身を捻って一発抜き射ち、床を転がって、ランプの光の届かない薄暗い部屋の隅に身を縮めたのだ。そこに片膝を立ててうずくまったまま、二丁の拳銃を操った。左右の銃口が交互に火を噴き、たちまち保安官の机が木っ端微塵になった。

 すでに保安官は机の中を出て、反対側にある簡易ベッドの陰に移動していた。

 保安官は頃合いを見計らって立ち上がると、真直ぐに背筋を伸ばし、キッドが隠れている部屋の角めがけて、腰だめの仰ぎ撃ちで弾を連射した。硝煙がその老いた痩躯を包んだ。

 事務所の中を双方の弾が飛び交い、火薬のにおいと煙が立ち込めた。事務所の板壁は間断なく微震し、其処此処が銃弾で抉られ、木屑が散乱して宙を舞った。

 キッドが動いた。床の上を滑るようにして、頭から、入ってきた廊下に飛び込んだ。色の褪せたカーテンが千切れ、キッドの体に巻きついた。

 その後を、保安官の銃弾が追いかけた。その銃弾が二発、アーチの木枠を削り取った。

 銃声が止んだ。

 保安官は銃を下ろし、簡易ベッドの枠にすがって、倒れそうになる身体を支えた。その眼は血走って大きく見開かれ、渾身の力を込めて、キッドの消えた裏口の廊下を見据えていた。口は、顎が外れたようにダラリと開いていた。咽喉が、酸素を求めて、懸命に喘いでいた。額が切れて、血が流れていた。滝のような汗が滴り、埃に塗れたその顔は、まるで粉を吹いているかのようだった。身体を支える手も脚も、ガクガクと震えていた。

 ズボンの右脚、太もものところが裂けて、血が滲んでいた。左の肩にも、花瓣のような血の跡が見えた。

「生きてるか、シェリフ」

 裏口につうじるアーチのあたりから、キッドの声がした。

 保安官は応えず、ただひたすらに、喘いでいた。埃まみれの半白の口髭から、血の混じった汗が滴った。

「どうなんだ、生きてるのか」

 自棄になったような声だった。その声も枯擦れ、息が荒く弾んでいた。

「ああ、生きてるよ」

 保安官も喘ぎながら云った。静かな声だった。出そうとしても、大声なぞ、出せないかのようだった。

「しぶといな」

「お互いさまだ」

 薄れかけた硝煙の中に、キッドが姿を現した。

 帽子は失われ、栗色の髪がボサボサに乱れていた。顔に引っ掻き傷が出来、血が滲んでいた。ふくらはぎが赤く染まった左足を引きずっていた。血色の良かった童顔は、いまではすっかり青白くなっていた。

 キッドは腰のあたりで、両手を前に出していた。その手の先には、銃口を下に向けた恰好で、二丁の拳銃がぶら下がっていた。引鉄輪に中指だけを掛け、他の指は大きく開かれていた。

 キッドは弱々しい笑みを浮かべた。

「あんたの勝ちだよ、シェリフ」拳銃が指を滑って、床に落ちた。「こっちは弾切れだ」

 姿勢が崩れかけたが、なんとか持ちこたえた。

「お互いさまだな」保安官も銃を落とした。「こっちもだ」

 ふたりは顔を見合わせて微笑んだ。瞬間、ともに同じ牧場で働き、ともに汗を流しながら、牛飼いや養豚の仕事を教え教えられた、先輩後輩の表情が甦った。

 しかし次の瞬間、その表情は、敵同士のそれに変化した。

 満身の力を込めて、ふたりは叫んだ。

「時代は変わったんだ、キッド」

「俺は変わらないぜ、シェリフ」

 二人は同時に動いた。

 保安官は床に身を投げ出し、直近にあったライフル銃を手に取った。

 キッドは身体を捻り、右手を背後に廻すや、その手を肩口から突き出した。

 銃声が轟き、事務所の空気が振動した。天井のランプが揺れ、埃が乱れた。

 右手を前に伸ばしたまま、キッドはその唇を釣り上げた。目元に不敵な笑みが浮かび、その笑みが童顔の全体に拡がった。

 保安官は射撃したときの姿勢を崩さず、血走った眼で、キッドの様子を見つめていた。

 喉頸に一筋、血が滲み、それが拡がって、赤い幕が滴り落ちた。

 保安官は目を見開いたまま、ライフル銃を構えたまま、滑るようにつんのめった。

 「あんたの勝だよ、シェリフ」キッドは口もとをゆがめた。「だが、俺は変わらないぜ」

 そして、倒れた。

 俯伏せになった背中に、赤い血が滲み、拡がった。

 保安官は、血と、埃と、汗に塗れた顔を上げた。

「おまえは負けたんだ、キッド」そして、苦しげに云った。「時代は変わる。変わるんだ」

 力尽きたその頬が、床に触れた。

 小半刻も経った頃、追撃隊が帰ってくる馬蹄の音が、彼方の砂塵にとどろいた。